今年は好きを丁寧に扱っていきたい

この数ヶ月で私の身に降りかかった(巻き起こした)数々の波乱は皆様一人一人に、直接お酒の席で伝えるとして。

私は好きなものが、多いほうではない。
友人付き合いも限られた人とだけしかせず、ものの好みも狭い。

23にもなって恥ずかしい話だが、未だに漫画を読むことができない。
コーヒー屋さんに行っても炭酸飲料しか飲まず、両親には「食の好みが幼い」と叱られ、友人には「ピザでいいよね?」と毎度のこと気を遣わせてしまう。

わがままを振りかざし、我が道第一で生きてきたこの数十年だが、
それでも好きなものが近い人を見つける力は凄まじかったと思う。
だから仲間はずれにされたこともないし、
友人関係で悩んだことは、覚えている限り一度もない。

私はこの特技を、共通トーンが似ている人を察知する能力として
大切に、大切に、自分の中で育ててきた。

けれどこの力は、時に誤作動を起こすことも多い。
例えば、誰かを好きになってしまうと、
新しいフィルターに自分のトーンを合わせたりする。
そしてその人を嫌いになると、その色を二度度迎え入れなくなったりする。
性能がいいわけではない機械なものだから、正誤判断ができるわけではなく、
いつもトーンという括りで曖昧に判断をしてきた。

自分の好きの周りには、ある程度広がりがあると思っていて、
その広がりが一定の範囲内であれば、
その人とは気が合う。これは好きだ。と解釈していたのかもしれない。

実は、昨年はこの共通トーンで本当に苦労した年だった。
これまで、トーンを基準に取捨選択を繰り返してきたものだから、
なぜ好きなのかということは、ちゃんと考えたことがなかった。

昔、ドラムをやっていたにも拘らず、音楽を好きになれなくて、
「この曲の、例えばどんなところがいいの?なんで好きなの?」
と友人にしつこく聞いたことがあった。
彼女は、「なんとなくいいんだよ。」と答えた。
私はこれまでの人生が何かに解放されていくような、そんな爽快感すら感じた。
そこから、音楽がとても好きになった。

理由なんてちゃんと考えなくても、これまで、
なんとなくで十分すぎるくらいの人生だった。

でも、あることをきっかけに、
ちゃんと自分の好きを考え直す作業を行うことにした。
最初は何も思いつかなくて、
やっぱり理由なんていらないんじゃないかと思ったくらい。
結構苦しい時間だったけれど、理由があるってやっぱりいいなと思った。

「何で好きなのか」それを考えるだけで、自分の好きを丁寧に扱える気がする。
違う見方もできるようになって、理由から共通トーンを探すようになる。
そうするとそれは、ふわっとしたものじゃなく、人に伝えられる形に変わっていく。
その形は、文章なのか、自分の発言なのか、はたまた贈り物なのか、よくわからないけど。
映画一つにしても、音楽にしても、いい!と思ったものを丁寧に扱っていくのは、
毎日に価値がある気がしてなんだか楽しい。

私は、自分が好きな人やものを、をたくさんの人に伝えたい。
それはリアルな友達紹介なのかもしれないし、
こうやって文章にすることなのかはわからない。

でも、1つの好きをじっくり考えて、
それが「なんとなく」以外の魅力で誰かに伝わった時は本当に嬉しくなる。

だから、好きをちゃんと考える。
なんとなくじゃなく苦戦してもちゃんと考える。

そうして、いろんな思いを伝えていける人間になれたらなあ、

なんて思った転職して1ヶ月目の戯言なのでした。

 

 

 

ブルはそれでもヒーローになるのか

2015年は初体験が沢山あった。

就職活動、祖父母との同居そして解消、iPhoneの水没、肉への目覚め、セクハラの探求。
どれも私にとって革新的なものだったけれど、やっぱり一番は
「ダーツの真ん中が最高得点でないこと」を知ったことだ。

 

お正月、父がいつも以上に気合いを入れて数の子を食べる。数の子の皮をせっせとむいたのは私なのだから「優先的に分配しろ」と思ったけれど、声にすることは無い。

横には、いつもとは違う日本酒が並べられ、父は嬉しそうに解説をしていた。解説の声と同時に数の子に伸びる箸数も止まらない。「やめてくれ」と心の中で1切れの数の子と対話しながらの元旦だった。


翌日、父は数の子を食べなかった。
様子がおかしいと思い、尋ねてみると今日は「休肝日」だからという。
父は、日本酒がないと数の子を食べない。

世の中には「王道」というものが必ず存在する。

ビールには焼き鳥、オムライスにはケチャップ、お正月にはおせち、パーティーにはドレス。
「ダーツなら真ん中」もこれまで自分の中で王道と思っていたものの一つだ。

小さい頃、100円均一で買ったダーツセットで友達と遊んでは、誰が一番真ん中に上手くあてられるか競争したものだったし、テレビ番組なんかでも真ん中にあたれば「豪華賞品!」などという文字を目撃する。町内の福引き大会だって同じだ。

22歳にもなってようやくダーツをまともにやって、それが間違えだったことに気づく。正確には17点以上のトリプルを出すのが最も点数が高いなんて、なんという詐欺だ。そして、その事実に気がついてからも、真ん中に矢が刺さったときはやっぱり嬉しい。

では、なぜみんなが真ん中を狙うというイメージがついていたかというと、私が素人だったということのほかに、そこが一番面積の割に高得点を出しやすいかららしい。

王道はたしかにいつだってコスパがいい。

例えばオムライスに納豆をかけることは、ある人にとっては神的に美味しくなるが、ある人にとっては劇的にまずいかもしれない。でもケチャップをかければまあ嫌いという人はなかなかいない。

だからといって、世の中がすべて王道で回れば、王道以外が生まれない訳だからその道は停滞する。(飽きる、という表現は飽きないから王道かもしれないということを加味してやめておく。)

ダーツは実は王道が最高得点じゃないようにしているし、人の味覚だって人によって違うから新しい料理が生まれ、食べログの口コミが4件くらいのお店がものすごく自分好みだったとき、私はまた違う喜びを感じるようにできている。

なにか新しいことを考える時、一人で考えるのはとてもコスパがいいと、これまでは思っていた。例えば就職活動で企画案を求められた時も、誰かに自分の考えを作る段階で見せたことはまずない。
カフェにいく時間があるのなら、ベッドの中で考えればいいと思ったし、一人でビールを飲みながら何かをするのが正直一番はかどる。

でも、ダーツの真ん中みたいに、それは最もコスパがいいだけだったのかもしれない。

自分の価値観の中だけで王道を決めつけないで、ちょっと蛇足になるかもしれないし息切れするかもしれないけど新しい価値観も取り入れてみる。そしたらオムライスにとろろを入れるメニューが生まれるかもしれない。

そういうことが、実は最高得点になることもあるんじゃないのかな。

それでもやっぱり、自分1人で出した成果の方が、ダーツのブルみたいにヒーローになれるのかな。

なんだかミスチルみたいになってしまったけれど、社会に出る2016年。
無駄になることを恐れないで、王道以外を考える年にしたいと思う。

 

体型こじらせ女子の未来

※昔のブログで書いていたものをそのままコピペしています。

 

最近、本気で痩せようと考えていて、まずは毎日体重計にのることから始めています。ご存知の通り激太りをした大学1年生時代からかれこれ数十回ヤセヤセ詐欺を繰り返しているのですが、まったくもって本気になれず、ダイエットなどいつも3日で終わっていました。今回もどうせ終わってしまうとは思うのですが、最近そろそろネタにできなくなってきたな…と思っているので私と同じようにぽちゃっていることがコンプレックスな体型こじらせ女子の為にこんな記事を書こうかと思いつきました。(私がどうしてこうなってしまったかを教訓にしてほしい)



※おことわり※

初めにおことわりとして言わせていただくと、私は自分のことをデブだとは思っていません。(すげえ嫌われそう)行き過ぎたぽっちゃりだと思っています。たまに『マキは太ってないよ』と言われますが体重のわりに(あくまでワリに)下半身に出ないだけで、上半身はただのBBA仕様になっております。(お腹を触るとみんな引きます)ですからさすがに太ってないとは主張しきれませんが、行き過ぎたぽっちゃりもしくはぽっちゃりだと思っています。


さて、本題に入っていきます。この記事は私と同じように、以前は確実にヤセの部類に入っていたのに、徐々に太り始めている、という方を体型こじらせ女子と定義しています。最初からデブ、痩せてるくせにデブとかいってやがる勘違い女子の方々にはここでお帰りいただきますようお願いしております。


■1ステージ ビューティー時代(推定〜7年前)

私のような女子がなかなか痩せることができないのには、実はこの1ステージが大きく影響しているのです。1ステージの体型こじらせ女子はモデルさんほど細くはないけど、周囲から比べて明らかに細いと言われるレベルです。この頃はまだ周りからの視線も優しく、羨望の眼差しも含まれていることでしょう。『ほんっと、○○の足って細くてうらやまし〜!』『そんなに食べるのにどうして太らないの〜?』などともてはやされますが、大抵の体型こじらせ女子は『そんなことないよ!細くないって!○○だって細いから!!』と定型文を華麗にキメます。さらには自分のブログなどに『うぅぅ…最近マジデブだあ…痩せなきゃあ。』と書いてしまうことで、一部の女子からは反感を買うことになるでしょう。本人達はまったく悪気がないのもかわいそうです。ステージ1のポイントは『痩せていることを全力で否定している』ことです。

■2ステージ 健康girl時代(推定7年前〜3年前)

1ステージからの進化を遂げた体型こじらせ女子は1ステージほど細くないにしろ、まだ細いと言われる時代です。違いとしては1ステージでは初対面で言われることが『やせてるよね〜』だったのが2ステージになると足を出したり、露出した格好をするときにだけ『やせているよね〜』と言われる、という所でしょうか。この頃になると以前はあった他人からの羨望の眼差しという点にほんの少し、陰りが見え始めます。1ステージではだいたい自分より細い子はクラスに2,3人程度なのですが、ここにくると一気にその数は2桁にまで跳ね上がります。そのため周囲の人間があなたに言う『やせてるよね〜』は自分への安心感の為だったり、ここまでなら痩せてる/ここまでなら太っている というグルーピング欲によるものも混じってくることになるからです。しかし、怖いのがこの時期はまだまだ太っていないというのがポイントです。デブといってからかわれるレベルにすらなりませんので、本人の感覚としてはステージ1のままなのです。むしろ、1ステージから蓄積されていくように、『細い!』と言われている期間だけがのびますので、体重と自意識が反比例しだすのがこの時期の特徴になります。確実に脂肪はあなたの知らないところで、あなたの体をむしばんでいっています。
自覚という薬を処方されない限り、進行を防ぐことができません(ウマいっ)


■3ステージ 建前としての健康girl時代

こっからはつらいので推定年数つけるのやめさせてください。いちおう私も人間です。
さあ、着実にステージをあげていった体型こじらせ女子はついに3ステージに突入していきます。この時期の特徴は『○○、最近少し太った?』です。この時期になるとさすがに体重の増加が表に出てきてしまいますが、まだまだデブとは言われません。あくまで『前より、太った』と言われるのがこのステージの特徴です。体型こじらせ女子はその言葉に2,3日は絶望しますが、『まあね。多分健康体型になったんでしょ』と無情にも片付けてしまうのです。そしてこのステージに入ると以前と比べて最も大きく変わることがもう一つあります。それは、『痩せてる』『細い』というワードからの脱却です。でもデブともいわれません。それでは、このステージでは、なんと言われるようになるのか。そうです。ここで天下のキメ技『全然ふとってないじゃん〜』という魔法のコトバが登場してくるのです。体型こじらせ女子はこれでもまだ気づけません。いや、この段階にくると気づいているけどどうにかなるという根拠のない自信で頭がいっぱいになってしまったり、女性の体は丸みが命だからなどといった訳の分からない主張を述べ始めるのです。


■4ステージ キャラとしてのデブ時代

このステージに入ると、ソーシャル上でのあだ名が次第に『デブ』という風に変化していきます。勿論体重の増加もとどまるところを知らず、正直細いとは確実に言えないレベルに突入します。友人も体重のことを触れる機会は少なくなってくるでしょう。体型こじらせ女子もここでやっと、真の絶望を味わうことになるでしょう。しかしまだまだ、どん引きされるレベルの太さではありません。それが悲しいかな、ちょうどいいフォルムに仕上がった体型こじらせ女子は『デブ』というキャラを被る存在になっていくのです。ここでの特徴は『まじなデブにはデブって言えないから』です。いや、もう既にデブなんですよ。デブなんです。それなのに、相手にデブって言われているうちはデブなんかじゃないと勝手に妄想したがるのです。『デブとか言われてるけど、実際そんなに?普通じゃない?』ああああああああああ!言ってしまった…。このコトバをついに出してしまった…。これまでの体型こじらせ女子はあくまで細さに対して否定していく。というのが特徴でした。しかし4ステージにくると、なんと自らが『そこまでじゃなくない?』と言ってしまうのです。だれからも痩せていると言われなくなった体型こじらせ女子は自ら、周囲の人間に言わせるように仕向けはじめるのです。何とも悪質かつ陰湿な手口です。この時期になるとソーシャル上に『痩せよう!』と書き込むと『がんばれ!』『がんばろう!』などと言った同情するなら金くれよ的な文章が返ってくるようになるのです。
 
そしてこの段階でやっと今まで言われ続けていた細いというコトバがいかに当てにならないか気づき始めるのです。信じられるのは自分だけ。強く、まっすぐに生きよう、そう心に誓うのです。

これは、つまり情報ビッチ

「みやうちは、情報ばかりだから、すぐに悩むんだよ。周りなんてどうでもいい、自分の五感で生きなさい」

大学受験の頃に、恩師が言っていた。
まあこれは要約するとつまりは、当時、私がしたらばの受験版ばかり見ていてナーバスになっていた時に、「スマホを見るな。机に向かえ!」と言われたということなのだが。

根本的に、私は周りの目を気にする人間であり、基本的に人間はみんなそうだと思っている。


誰かに聞いたからとか、誰かがこう言ってたからとか、いままでの人生そういうのばかりだ。
目の前でこしょこしょ話をされて、こちらを向いて微笑まれたらほっといて堂々としているだけの勇気が私にはない。「いっそのことビールをかけてやろうか」と思うくらい被害妄想オバケな説も否定できない。

これは一見、とても保守的で臆病な人間に思えるかもしれないけれど、むしろ挑戦的な人間である気もする。
だって、人がどういう感情でその言葉を発したとか、どういう状況でその言葉を考えたとか、そういうのを一気にすっ飛ばして

「友達がそう言ってたから」

で片付けてしまうのだから。すごい、すごい挑戦的な姿勢だ。自分で聞いたわけでもない情報に、異様なまでに飛びつく。ところかまわず食いつくその姿はもはや情報ビッチである。

少し違う話になるが、物事を考える時もそうだ。

私はよく、朝まで生テレビを朝まで見る。長い時間みていると、あの政治家がこんなこと言ってたというのばかり目に付くもので、知らないうちに自分で考えることをやめている。

「あー!この人分かるなあ」とはなるけれど「あー私はこう思う」とはならない、時もある。とはいえ、これは必ずビールと一緒に視聴しているせいもあるかもしれない。

なぜ五感で生きなさいとあの時言われたのか。
私には、自分で感じとって考える力がない。賢くないのだから、自分の目や耳で確かめなければならないのに、感じとろうとしない。だって、目の前にはパソコンがあり、iPhoneがあり、SNSがある。

目の前に、簡単にご飯をおごってくれるイケメンがいたら。
労力をかけて手に入れるフェーズが面倒くさくなり、すぐに食いつくかもしれない。


もう、簡単に自分を情報に許したくない。目の前のイケメンなんて信じない。信じられるのは、ゆっくりデートを重ねられる真面目な男性だけだ。

情報と自分の五感。

頭の中で天秤にかけながら、それでも私は目の前のイケメンに屈服する。

今日もみん就を見て憂鬱になる。そんな夜。

こういう時こそ、沢山飲みに出かけよう。



クリエイティブトイレ

勉強は密室で1人黙々とするのが好きだ。

音のしないトイレじゃないと、出せない。

 

自分の友人たちが、男女数人のグループでワイワイしながらテスト勉強しているのを羨望の眼差しで遠くから見ていた。合宿中なんかに「やべーお腹いてぇ」とトイレに駆け込むことのできるあの子が羨ましかった。


予備校の自習室は、自分の目の前に人ではなくて壁があるからいい。

自分と机と参考書と、息抜きがてらに読む本とクロレッツさえあれば、それだけでそこで漏らしてしまえるくらいのリラックスを手に入れることができる。音のないヘッドホンを耳につければ、心地としてはそこはもうトイレである。

インターンしていた会社で、社長がよく言っていたのが、「1人で机にむかっても、いいアイデアなんてうまれないんだぞ。アイデアはクリエイティブな場所から生まれて行くんだぞ」。と。

なるほど私は、だからいつまでたっても頭が堅いのか…
人間歴20年目にしてようやく気がついた瞬間だった。

それからというもの、勉強するときや、考え事をするときは、極力密室に行かないように努力した。本当はカフェなんて大嫌いなのに、頑張って渋谷のフリーマンカフェに足を運んだりもした。

カチカチパソコンを打っているエセ安藤美冬や、どこに使うかもわからない企画書を書いている意識高い学生の集団を横目に、ひたすら勉強した。

無理だった。
苦しかった。

今私が読んでいるこの本を、もし隣の人に見られたらどうしよう。

『女性の品格』なんて必死で読んで、実はもてたいことがばれたらどうしよう。いや、でもそしたら「これは、あくまで、学校の!学校の課題なので!」としっかり伝えよう。そうだ、伝えれば必ず分かってもらえる。あ、でも、必死になって主張したら、ださいって思われるかもしれない…あ、でも否定しないと…。あ、でもこれは、カバーだけで、本当は町田康読んでるんです!とか言えば、あ、でもそれはそれで…エセサブカルとか…

考えるだけ考えたら、お腹がいたくなったので、私はトイレに駆け込む事にした。
普段ならば、絶対にできない。フリーマンカフェのトイレは少し離れたところにあるけれど、あそこはかなり人が入っているし、並んでいる上に、外の声まで聞こえてくる。

本当は、すごく入りたくない部類のトイレだったけど、このまま席にいても『女性の品格』が高められないので、本片手に入ることにした。

お腹は痛い。外からは大量の話し声。外に人が並んでいるのも感じ取れる。

とにかく、私は意識を研ぎすまし、なんとかここを無音の密室空間に仕立て上げようとした。この狭い部屋の、空間プロデューサーになるかの如く…。

次の瞬間、私は歓喜した。

歓喜とともに、お腹の痛みはゆっくりとひいていく。

大げさでなく、本当に初めてだった。
こんなに公衆の前で出せたのは。

 

あの日が、
生まれて初めて、自分のトイレをクリエイトできた瞬間だった。

失われてゆくわたしの賢者タイム

 

深夜2時にじゃがりこを食べる行為は、それをおやつ時間の3時に食べるよりも、どこか秘密で、特別な儀式である。「食べてはいけない」と頭では分かっているのに、手が自然と動いてしまうあの状態は、お昼の自分では勇気がなくて実行できない、ちょっとした下心と似ているなあと思う。


初めは、半分まで食べよう。と決める。

「カロリーが1箱298だから、半分ならごにょごにょ」

…バカだ。バカなのだ。
そんなこと分かっていても、もう戻れない。

そんな言い訳を繰り返しながらあと1本、あと1本と食べ続けているうちに、見事に腹の中に300キロカロリーが消化される。次の瞬間、いつも賢者タイムに突入するのだ。

じゃがりこサラダ味とピロートークをする余裕と元気はもうないので、私はじゃがりこのハコを遠くからゴミ箱に投げつける。投げつけたら、必ず外れる。そうやっていつもゴミ箱の周りのゴミの数だけ、賢者としての経験値があがっていく。

欲望に負けたあとの自分は、大嫌いだ。素直になれない自分は嫌いだけど、欲望に負けるのはもっと嫌いだ。

 

幸か不幸か、それでも私には賢者になれる気概がある。

レベッカのフレンズという曲の中に、こんな歌詞が出てくる。
「口づけを、交わした日は、ママの顔さえも見れなかった」

じゃがりこを食べた深夜は、鏡さえも見れなかった。

上記の歌詞は、曲の1番初めのフレーズなのだが、最後の歌詞はこうなる

口づけを交わしただけで、ママの顔が見れなかった女の子が、大胆にも

「あの瞳が、愛おしい」と囁くのである。

もう、なにをやってもママの顔も見れる。そのくらい、彼女は女性として成長したのかもしれない。下品且つ多くの人にニュアンスが伝わる言い方でかくと、

 

やった。絶対にやったんだ。


気がついたら、今までは賢者になってた自分が永遠に愚者になる危険性。深夜じゃがりこにビールを追加してしまう危険性。いや、ラーメンに手をつけるかもしれない危険性。

賢者タイムは勇者の証だ。欲望に正直に、リスクを犯した自分をそれを後悔しつつ、少し冷静になっている自分を誉めてあげる時間なのだ。

 

こういう思考モードだから、日に日にクズになっていく。

手に持ったシリアルブランのゴミが外れた深夜1時、情けなさとふがいなさの中に、唯一の希望を見いだしたい、そんな毎日である。