失われてゆくわたしの賢者タイム

 

深夜2時にじゃがりこを食べる行為は、それをおやつ時間の3時に食べるよりも、どこか秘密で、特別な儀式である。「食べてはいけない」と頭では分かっているのに、手が自然と動いてしまうあの状態は、お昼の自分では勇気がなくて実行できない、ちょっとした下心と似ているなあと思う。


初めは、半分まで食べよう。と決める。

「カロリーが1箱298だから、半分ならごにょごにょ」

…バカだ。バカなのだ。
そんなこと分かっていても、もう戻れない。

そんな言い訳を繰り返しながらあと1本、あと1本と食べ続けているうちに、見事に腹の中に300キロカロリーが消化される。次の瞬間、いつも賢者タイムに突入するのだ。

じゃがりこサラダ味とピロートークをする余裕と元気はもうないので、私はじゃがりこのハコを遠くからゴミ箱に投げつける。投げつけたら、必ず外れる。そうやっていつもゴミ箱の周りのゴミの数だけ、賢者としての経験値があがっていく。

欲望に負けたあとの自分は、大嫌いだ。素直になれない自分は嫌いだけど、欲望に負けるのはもっと嫌いだ。

 

幸か不幸か、それでも私には賢者になれる気概がある。

レベッカのフレンズという曲の中に、こんな歌詞が出てくる。
「口づけを、交わした日は、ママの顔さえも見れなかった」

じゃがりこを食べた深夜は、鏡さえも見れなかった。

上記の歌詞は、曲の1番初めのフレーズなのだが、最後の歌詞はこうなる

口づけを交わしただけで、ママの顔が見れなかった女の子が、大胆にも

「あの瞳が、愛おしい」と囁くのである。

もう、なにをやってもママの顔も見れる。そのくらい、彼女は女性として成長したのかもしれない。下品且つ多くの人にニュアンスが伝わる言い方でかくと、

 

やった。絶対にやったんだ。


気がついたら、今までは賢者になってた自分が永遠に愚者になる危険性。深夜じゃがりこにビールを追加してしまう危険性。いや、ラーメンに手をつけるかもしれない危険性。

賢者タイムは勇者の証だ。欲望に正直に、リスクを犯した自分をそれを後悔しつつ、少し冷静になっている自分を誉めてあげる時間なのだ。

 

こういう思考モードだから、日に日にクズになっていく。

手に持ったシリアルブランのゴミが外れた深夜1時、情けなさとふがいなさの中に、唯一の希望を見いだしたい、そんな毎日である。